森造じいさん

森造じいさんの言の葉 No.1

■森造じいさんのプロフィール■

本名:田中森造(たなかもりぞう)。明治37年(1904年)1月23日生。昭和58年(1983年)1月3日没(享年79歳)。裸一貫から出発し、電電公社(現・NTT)局長職を全うした後、隠居。多くの子・孫たちに恵まれ、彼らに大きな威厳と愛とを示した。趣味はボクシング観戦、クラシック鑑賞。特技は散髪、乳歯抜き。

■なぜ今、わしの出番なのか■(2002年4月26日)

わしはすでにこの世を去った。わしの孫がどうしてもわしの言葉を今の世に伝えたいというので、わしの考えを話したいと思う。第二次世界大戦後たった数十年の間に、長い歴史を有するこの国の有様は劇的に変化した。敗戦を経験し、その復興のために国民が知恵と力の限りを尽くし、今や日本は世界の先進国に比肩しうる大国となった。その発展の一方で、失うものもまた大きかったように思う。わしは電電公社に勤務しておったから、戦地に赴くことができず情報の近代化を目指して戦ってきた。誠に残念なことだが、先の大戦から今日に至るまで、日本は情報の戦争に負け続けているのではないかと思わざるを得ない。ここでいう情報とは、’information’という意だけでなく、’communication’という意を含むと考えておる。わしに言わせれば、日本の技術開発力は世界でトップクラスであるが、その技術を外国に良い条件で売るための交渉、’communication’を不得手としているのではないか。この不得手な部分を克服するには、何をさしおいても人間を鍛練することが重要であると思う。ここでこうした鍛練の機会をわずかながらも与えることができるなら幸いである。誰にも批判されたくない、自分は常に正しいと思っている者には、ともすれば毒薬にもなるであろうから、免疫が出来るまでは読まぬよう一言申し上げておく。

■携帯電話の発展、万歳!!断罪!!■(2002年5月5日)

昨今の携帯電話の普及は、電電公社で通信に関わる仕事をしておったわしからすれば大変喜ばしいことじゃ。しかも、日本の携帯電話の性能やシステムは世界標準を争うほどのものと聞いておる。携帯電話用の小型リチウム電池など、世界中どこを探しても日本のものより良いものはない。携帯電話が昔で言うところの音声伝達システムとして普及したというより、iモードを代表とする文字伝達システムの普及が、このビジネス発展の火付け役になったと言ってもよいじゃろう。
  じゃが、文字によるコミュニケーションの普及は、人間同士、面と向かってのコミュニケーションを退化させる原因になっておる。今や、サラリーマンから学生まで、面と向かってのコミュニケーションよりもメールでのコミュニケーションを好んでいる輩が多い。家族同士の会話も、メールで済ませてしまう時代である。これは面と向かってのコミュニケーションの経験を大いに阻害しておる。メールは送り手が自分の思いついた時、自分の都合で、自分の言いたいことを自分の言いたい時に好きなだけ言えるという点で自由度が高い。じゃから、使いやすい。それに比べて、面と向かってのコミュニケーションじゃと、相手がこちらを向いているか、こちらの話を聞こうとしているかなどと、相手の反応を見ながら話さなければならん。じゃから、疲れる。
  結果として、他人のことを考えない人間が完成してしまうのじゃ。メールばかり使っている者よ、生の人間に直に会って面と向かってのコミュニケーションの機会を増やすのじゃ。さもなくば、お主ら現代人は協調や交渉等のコミュニケーションに脆弱な人間になるか、キレやすい人間に堕ちてしまうぞい。

■携帯電話会社の問題■(2002年5月10日)

 上に言うたことは、携帯電話会社にも問題があるように思うのじゃ。自分の会社だけ儲けようとするさまは愚かすぎて目も当てられん。その技術が人間の生活に何を与えるのか、人間の成長にどのような貢献をもたらすのか、逆に弊害を与えうるのか考えておらんのではないか。ビジネスのことばかり考えず、人類への貢献、自国の発展についても考えていかんと、わしは認めんぞ。なんじゃい、あのメールを楽しそうに格好良く使っとるCMは。メールより電話を使いやすくするための方策を考えよ。例えば、通話料金を無料にして、メール送受信の料金を10倍にするとか、コミュニケーションの問題に真剣に取り組むことはできんのか。人間を楽にする機械を開発することが目標ではない。人間を成長させ幸せにする機械を開発することをこそ目標にせよ。

■メールなんぞは卑怯で姑息■(2002年5月21日)

前にも言うたと思うが、現代人は面と向かってのコミュニケーションが下手になってしもうとる。メールを連絡に使うのは良いわい。感謝やお礼を略式に伝えるのもまあ良しとしよう。じゃが、苦情や不満、批判や自己主張、釈明なんぞをメールで済ませてしまうのはまったくもってケシカラン。そういう輩に限って、面と向かって相対しとるときには何も言わん。会うてるときには何も言えんが、家に帰って色々考えてようやく自分の意見が見えてくるんじゃろうな。それなら次に会うたときに直接言えば良いではないか。それができんもんじゃから、一方的に自分の考えをメールで送って済まそうとしておるんじゃろうの。こうして、さらにコミュニケーション下手になっていくんじゃ。いつかどこかでやり方を変えていかなんだら成長せんぞ。

■コミュニケーション下手の特徴と結末■(2002年6月13日)

 コミュニケーション下手っちゅうのはのう、熟慮を欠いた行動をしてしまいやすいんじゃ。いろんな対処法があるのに、この対処法をじっくり考えず短絡的にものごとを処理してしもうたら何の成長もない。そりゃあのう、面と向かってコミュニケーションを取るのは骨が折れるし、エネルギーがいるのは分かるわい。批判されるかもしれんし、相手にされんかもしれん。結果として自分の自尊心が傷つけられるかもしれんしの。じゃがのぅ、面と向かってのコミュニケーションを避けとる連中。普段から鍛えられとらんから何をやってもエネルギー不足で中途半端になってしまうのがオチじゃ。面と向かって他人と話すこと。これだけでも鍛練になるんじゃぞ。

■エネルギーを失ったニヒリズム■(2002年6月20日)

まあ、現代の日本を見渡してみると、なんとエネルギーの無い人間の多いことか。色んな価値があって良いという風潮が蔓延しておるのは、要するにエネルギー不足の個人主義者が多いからじゃろう。「俺は俺、他人は他人」という、しらけムードが氾濫した結果、生命の尊厳を軽んじる輩を生み出すのじゃ。インターネットのコミュニケーションなんてものがの、余計にそういうムードを創り出しておる。日本国民が段々、外部から口を挟むだけの「役立たずの評論家」に堕ちていっとるのが何とも嘆かわしいわ。むしろのう、オヤジ世代に抵抗しておる青年の方がエネルギーに満ち溢れとる。こやつらが、そのエネルギーの方向を見誤らなんだとき、すかしたオヤジ世代にはできんかったことが成し遂げられるじゃろうの。

森造じいさんの言の葉 No.2

■厳しい鍛練を求める者■(2002年7月4日)

わしの孫が言うには、わしのこのコーナーを始めてからというもの、アクセス件数が減ってしもうたそうな。まあ、確かにホームページを覗けるモンは最低でもインターネットが使えるわけじゃから、メールなんぞのコミュニケーション批判を我が事のように受け止めた可能性はあるかもしれん。それで苦しゅうなって離れていったんじゃろうの。じゃがのう、頼もしいのは高校生や大学生くらいの若モンが熱心な読者になって更新を楽しみにしておるらしいことじゃ。親や祖父母、あるいは教師に怒られたことはあっても、真剣に叱られたことのない連中がこの世代に多いのかもしれんな。もちろん、この若い世代にも課題が山ほどあるのじゃ。それは、言葉として納得するだけではなく、実生活で自分の決めた目標や価値に向かって日々精進することじゃ。鍛練を止めることは簡単じゃが、日々精進するのは何と難しく厳しいことか。己の価値がどこにあるのか毎日吟味して生活してみぃ。

■「まあいいか」とすぐに言う奴■(2002年7月11日)

エネルギーの足りん奴は、すぐに「まあ、いいか(しょうがない)」と言うてしまうのう。まったくもって嘆かわしい。「まあ、それでもいいか」「まあ、こんなもんでいいか」「今のままでも、まあいいか」などのオンパレードじゃわの。こういうもんを「達観」と名付けることで、まるでこれが美徳かのように言う奴もおろうが、困難な道を選ぶことができんだけのことじゃ。じゃが、一方で「諦観(ていかん)」という心境に立つこともまた重要じゃ。そうでなければ、何でもかんでも革命を起こさなくてはならなくなってしまうからの。つまり、出来るときに、心血注いで取り組んで、その後は「なるようになるさ」と考えればよい。それで駄目なら、その結果を受け止めて、新たな道を模索すれば良いのじゃ。

■自己評価はあくまでも低く■(2002年7月27日)

現代人は、やたら「自分としては満足」とか「自分は納得しているからそれでいい」とぬかすのう。そんなことをぬかして現状に甘んじておる奴はそこで停滞するのみ、まったく成長・発展せんぞ。他者あるいは社会に認められとる奴は、そんな寝惚けたことはぬかさんじゃろう。自己評価を下すときにはの、「周りは認めてるのかもしれないが、自分としてはまだ満足できない」としておく位がええのんじゃ。それが道を極める者の取るべき態度じゃ。

■森造じいさんへの質問■(2002年8月8日)

Q:私の職場の上司ですが、「仕事のことで何かあったらe-mailで連絡して」と言ってくれました。それで仕事のことで何度かメールを出したのですが、ほとんど返事がありません。メールで仕事のことが打ち合わせできたら便利なんですが、この気むずかしい上司にうまく返事してもらえる方法はありませんか。(広告代理店勤務。女性)

A:お主は何をぬかしてけつかるか。その上司は、仕事の打ち合わせのための「会合の日時」「前回の会合の整理」「次の会合のテーマ」などを連絡してほしいために、そう言ったと考えられんのか。だいたいお主、「メールで打ち合わせできれば便利」とぬかしおったな。たわけたことをぬかすでない。お主は自分の仕事に誇りをもっておらんのか。仕事の内容については会って話をすべきじゃろう。それにそんな調子ではメールの内容も気軽で失礼じゃったかもしれん。とにかく、お主が反省せい。

■自由とは何ぞや■(2002年8月19日)

人間は束縛されることが嫌いで自由を好むといえば当たり前と言われてしまうじゃろうの。自由を欲して好き勝手なことをやらかしてしまいたくなる年頃があるのもよう分かる。じゃがのう、わしら(といってもわしはもうあの世じゃが)生きておるモンは、生きておる限り、自由なんぞ得られるものではないのじゃ。たとえば考えてみい。「教室の窓ガラスを割るも割らんもお前の自由。好きにするがいい」と言われた奴が、本当に窓ガラスを割ったとする。じゃが、こう言われた時点でガラスを割ろうが割るまいが自由は失われておるわけじゃ。生きとる限り、自由などというもんはフィクションにすぎん。「おれは絶対に目を閉じたくない」と思っていても、突然の強い光や風で舞った埃一つで勝手に目蓋が閉じてしまうような生理的性質を持っとることからも想像できるじゃろ。ビルの30 階から隣のビルの屋上まで飛び移ろうと思うても、どんなに腕をはばたいたところで到底無理、遺伝的にも最初から制約があるわけじゃ。
 じゃが、重要なことは「自分は自分のしたいことを選択できる。選択肢も1つしかないのではなく増やすこともできる。ゆえに、自分は自由である(気がする)」ということを実感することなのじゃ。裕福なモンは自由、貧しいモンは不自由と短絡的に結びつけるのは愚かじゃ。裕福なモンでも自由である気がしない奴、貧困なモンでも自由だと感じておる奴もいる。自分は好き勝手自由にできると思い込んどるモンよりも、制約の中で自由を見つけようとするモンのほうが余裕のある生活を送れるということじゃ。

■放牧の自由■(2002年9月2日)

前に、生きておる限り自由とはフィクションというたが、こんなもんを追い求めると逆に不自由な感覚を持ち続ける不幸を招くことになる。そういう輩は常に不満を持ち続けていく哀れな輩じゃ。放牧の牛や羊のことを想像してみい。広い範囲で自由に動くことが許されとるだけであって、ある範囲を超えると強制的に戻されるんじゃ。逆に、牛や羊が好き勝手な所に行くのを誰も止めてくれなんだら、家畜泥棒にさらわれてしまうかもしれんし、狼に喰われてしまうかもしれんし、崖から落ちてしまうかもしれん。ま、牛や羊は自分がなぜ連れ戻されるのか分かっとらんじゃろうがの。とにかく、ある程度の強制力があるおかげで人間は安心に生活できとるわけなんじゃ。親や教師、法や国家の強制力に反発したくなることもあるじゃろう。じゃが、与えられとる強制性をどう感じるかはお主らのとらえ方次第。子どものうちならば良いが、ええ社会人ならばまずはこういうスタンスをとってみい。

■バランスの問題■(2002年9月20日)

物事が上手くいくときは自由を感じることができるじゃろう。逆に上手くいかんときは不自由に感じるものじゃ。そりゃあのう、何でも上手いこといくほうが心地よいわい。じゃが、上手くいかんことを何度も何度も経験しておる人間こそ、上手くいったときの喜びが大きいのじゃ。いつも成功しとるモンにすれば、ちいと失敗しただけで大きな不満をかかえてしまいやすい。例えるなら、いつも一番だった優等生が二番になってしもただけで落ち込んでしまうようなもんじゃ。こう考えるといつも成功しとるモンはかえって気の毒じゃのう。親や教師ならば、子どもを「上手くいかんでも努力を続ける強い人間にするため」に工夫をしてみい。成功ばかりしとる場合には失敗経験を、失敗ばかりしとる場合には成功経験をさせるよう配慮するのじゃ。

■己が弱さを知れ■(2003年1月17日)]

自分の弱さというものはの、無意識のうちに隠してしまうものなのじゃ。じゃから、自分の強いと思うておる部分が、実は裏を返せば弱い部分であることもようある。じゃが、それに気が付いたとき、それほど無理に強がる必要も無うなるじゃろう。真の強さとは、強さを磨くことではなく、己の弱さを知ることに始まるのじゃ。

■森造じいさんへの質問■(2003年2月26日)

Q:森造じいさんへ質問です。私のちょっと上にあたる上司ですが、典型的な中間管理職タイプというか私にだけは絶対に得にならないようにして、反対にその上司の上の人間に対してはイエスマンなんです。そんな上司の態度を改めさせる方法って何かありませんか? (会社員。男性)

A:何をたわけたことぬかしてけつかるか。それが当たり前じゃろう。そんなもん、態度を改めさせるなんぞ土台無理な話じゃ。お主のその上司にはまだまだ焦りがあるんじゃろうの。嫉妬っちゅうもんは、年下や後輩のもんが年上や先輩を追い抜いたり、脅かす存在になったあるいはそう感じた場合に生まれるもんなのじゃ。自分の城を立派に作り上げてしまった人間はの、若い人間の築城を邪魔したりせんのじゃ。自分より後に築城を始めた者が、ものすごい勢いで今までの城よりも巨大で立派な城を作りつつあるとすればどうじゃ。先輩城主は、それを阻止しようとするじゃろうて。のう、別に励ましで言うつもりはないが、その上司は可愛そうなやつじゃと断言できるわい。そう思って哀れんでやれい。

■コメじゃ、コメ!!■(2003年6月3日)

戦後日本はあらゆる文化破壊の憂き目におうておる。特に食文化じゃ。日本人の主食はコメじゃぞい。貿易の観点からも外国からの食料輸入に頼らず、コメの需要を増やさんか。まずは学校給食をすべてコメ食にすべきじゃわい。パンなんぞが好きな奴は、朝、かじってきたらそれでええ。いくらなんでも食料の自給自足率が低すぎるわ。日本が真の意味で独立国家たるためには、食料輸入に依存する今の体質を変えんといかん。国内のバランス、国際的なバランスに敏感な政治家はおらんのか? 食料自立5カ年計画とか、食文化改正10カ年計画などドラスティックな変化が期待できる具体策をなんとしても打つべし。自国の文化の維持には計画が必要じゃ。なおものんびりしておったら、さらに浸食されてしまうわい。

■外国語を学ぶ理由■(2003年8月13日)

外国語を学ぼうとする日本人が多いのう。勉強しようとする姿勢は評価してやってもええ。じゃがのう、その目的はなんじゃい。格好がええからとか、みんながやってるからとかぬかしておる奴は、外国語を習得したところでクソの役にも立たぬわ。日本には母国語で高度な科学技術を利用できるし、伝達できるのじゃ。では、何故、外国語を学ぶのか。それは「仕方ない」からじゃ。日本の国益を考えると、海外から取り入れるべき科学技術もあろう。日本人は昔から海外の技術を取り入れ、母国語で考えてその技術を日本の中で世界最高水準のものに仕上げるのが得意じゃった。これから先もその姿勢、忘れてはなるまい。日本の国益のために「仕方ない」から学べ。もう一つ、海外の人間が日本語を習得するのが困難じゃゆえ、「仕方ない」から相手の言葉を使って教えてやれ。よいか、こういう姿勢が大切なのじゃ。そして、ここで考えよ。おぬしは、海外から何を取り入れて、それを日本でどう活かすのじゃ? そして、海外の人間に教えてやることは何か持っているのか?

■揚げ足取りの役立たず■(2003年8月13日)

世の中で良いも悪いもとにかく世の中を動かしておる人間の揚げ足を取るしかできぬ奴は役に立たんわい。

森造じいさんの言の葉 No.3

■受け身を取らせることが肝要じゃ■(2002年10月16日)

最近の親はのう、我が子に失敗させんようにばかり気を遣っておるようじゃ。子どもがつまずかんように、親が子どもの目の前の石をのけてやっとる。いろいろと子どものうちから転んでおくこと(失敗や挫折をしておくこと)がどんなに大切なことか分かっとらん。転んでしもうた時に、ダメージの少ない受け身の取り方を習得しておいたほうがええじゃろ。転んでも自分で立ち上がる練習をしておくほうがええじゃろう。受け身の取り方を知らぬまま大きくなってから転んだらどうなる? 体が大きい分だけ、ダメージが大きくなってしまう。親がどれだけ配慮して家の中で転ばないようにしてやっても、社会に出たときに一度も転ばずに済むか? 子どもが小さいうちに少し痛い目をしておくのと、大きくなってから転んで簡単に立ち直れない程に痛い目に遭うのと、どっちがええのかよう考えてみい。

■覚醒せい!!■(2002年10月22日)

我が国に対して長距離ミサイルによる威嚇を繰り返し、工作船による度重なる領海侵犯、邦人の拉致を繰り返してきた近くて危険で身勝手な国、北朝鮮。経済的援助を求めて拉致に関する加害を認め、断片的ではあるが被害者についての情報を提供し始めた。何と酷い仕打ちか。何よりも情けないのは日本国民が今まで何も出来なんだことじゃ。そして、何も考えてこなんだことじゃ。まるで他人事よとばかりの無関心。自分の家族が同じ仕打ちに遭ったらと想像できなかったのか。自分の愛する者が拉致されたらどうか。自分には愛する者を取り戻せる力があるのか。たった一人の邦人でさえ守る意志や力が我が国にあるのか。工作員活動を行わせないほどの防衛力、情報網があるのか。まったくもって我が国は、海外からの脅威が押し寄せるまで何も出来ぬお目出たい島国民族の集まりじゃ。安定の時代ならええが今の時代はそうではなかろう。わしは嘆かわしいわい。

■森造じいさんへの質問■(2002年11月18日)

Q:この前、私の職場で「心から部下のことを褒めて育てなさい」と言われました。確かに自分でも自然に褒めることができていないと思います。うわべだけになっているというか・・・。「自然に褒めないと」って思えば思うほどなんか自分が空回りしているような気もします。森造じいさんもこんな経験ありますか? (会社員。女性)

A:褒めようなどと考えとるから上手くいかんのんじゃ。人との付き合いはマニュアル通りにはいかんぞ。それに、お主が褒めたとしても相手が喜ぶとは限らんじゃろう。褒められて喜ぶやつもおれば、褒められても嬉しくないやつもおる。相手の立場に立って考えたり感じたりすることを絶え間なく続けることじゃ。そのために想像力の逞しさが不可欠。要は「褒め方」より「感じ方」が大切ということ。これを肝に銘じておけ。

■職人の国■(2002年12月14日)

今年、2名の日本人がノーベル賞を受賞した。その内の一人、田中耕一氏は学者ではなく民間企業のエンジニアじゃった。地位や名誉ではなく、技術が評価されたのじゃ。耕一氏はのう、生後すぐに母親を亡くし、養子として親戚の家で育てられたという。耕一氏本人の人柄もさることながら、うらみつらみや被害者意識を生み出させなかった親戚一家もまた素晴らしい。耕一氏が育った家は、父親が大工道具の修理職人じゃった。きっと父親の仕事に打ち込む姿を何度も見ていたはずじゃろう。耕一氏も試行錯誤を重ねる一職人じゃったといえる。
 今回の氏に限らず、我が国には数多くの職人がおる。ところが、これらの職人が見出した技術が他国の者の手柄にされておるケースも数多くあるのじゃ。本物の職人っちゅうもんはのう、地位や名誉よりも目の前にある問題を最も効率よく解決することに心血を注ぐもんなのじゃ。日本人には真の職人魂があるんじゃろうの。戦後に押しつけられた価値観から目を覚まし、日本古来の風土に守られた気質を取り戻さねばいかん。何度も、こつこつと、試行錯誤を繰り返す。耕一氏が本来の日本人の姿なのである。

■赤穂義士討入りから三百年■(2002年12月17日)

赤穂浪士が浅野内匠頭の仇討のために吉良邸に討入りを決行して丁度、今年で三百年じゃな。この三百年の間に、同じ日本の血を引く現代日本人が無くしてしもうたものは何か? 武士としての「義」や「忠」、親の「愛」、子の「孝行」、夫婦の間の「信頼関係」、浪士を陰から支えた町人の「心意気」など。四十七名の浪士の中には16歳の子どもから70を過ぎた老人もおったわけじゃから、現代日本人も子どもから老人までがさらに親しむべき教材にすべきじゃと考えておる。じゃが、戦後の流れの中で「自分の命を大切にすること」の教え方に間違いがあったとわしは思う。「自分の命を大切にすること」とは、自分がこれまで生きてこれたことを深く感謝することに始まる。現代日本人の多くが不平不満ばかりをぬかしおって、「感謝」の念を持つことを忘れてしもうとる。その感謝の向き先を身近なところから大きなところまで向けるのじゃ。「自分はこうして生きている。なぜならそれは、~からだ」ということを、子どもも老人も考え続けることが必要じゃ。たったこれだけのことでも難しい事じゃろうの。

■森造じいさんへの質問■(2003年1月9日)

Q:東京本社の男性社員が転勤してきて1ヶ月が過ぎました。彼は、「そうだね」を決して言いません。絶対反対の事をいいます。だから、反対をわざといったりして思う通りにことを進めています。でも、そのストレスたるや・・・。もうどうつきあっていいやら。森造じいさんにお言葉をいただきたいです。(会社員。女性)

A:そういう輩がおるのは仕方のないことなのじゃ。お主は「思う通りにことを進めている」とぬかしておるが、それは間違っとるぞ。そんなことを繰り返しておっても何にもならんぞい。どうせストレスを感じておるんなら、思い切ってそやつの言うとおりにやらせてみて、そやつ自身が損をするようにすればいいんじゃい。お主や周りのもんがどこかで無意識にフォローしてきたさかい、いつまで経っても変わらんのじゃ。

森造じいさんの言の葉 No.4

■己が弱さを知れ■(2003年1月17日)

自分の弱さというものはの、無意識のうちに隠してしまうものなのじゃ。じゃから、自分の強いと思うておる部分が、実は裏を返せば弱い部分であることもようある。じゃが、それに気が付いたとき、それほど無理に強がる必要も無うなるじゃろう。真の強さとは、強さを磨くことではなく、己の弱さを知ることに始まるのじゃ。

■コメじゃ、コメ!!■(2003年6月3日)

戦後日本はあらゆる文化破壊の憂き目におうておる。特に食文化じゃ。日本人の主食はコメじゃぞい。貿易の観点からも外国からの食料輸入に頼らず、コメの需要を増やさんか。まずは学校給食をすべてコメ食にすべきじゃわい。パンなんぞが好きな奴は、朝、かじってきたらそれでええ。いくらなんでも食料の自給自足率が低すぎるわ。日本が真の意味で独立国家たるためには、食料輸入に依存する今の体質を変えんといかん。国内のバランス、国際的なバランスに敏感な政治家はおらんのか? 食料自立5カ年計画とか、食文化改正10カ年計画などドラスティックな変化が期待できる具体策をなんとしても打つべし。自国の文化の維持には計画が必要じゃ。なおものんびりしておったら、さらに浸食されてしまうわい。

■外国語を学ぶ理由■(2003年8月13日)

外国語を学ぼうとする日本人が多いのう。勉強しようとする姿勢は評価してやってもええ。じゃがのう、その目的はなんじゃい。格好がええからとか、みんながやってるからとかぬかしておる奴は、外国語を習得したところでクソの役にも立たぬわ。日本には母国語で高度な科学技術を利用できるし、伝達できるのじゃ。では、何故、外国語を学ぶのか。それは「仕方ない」からじゃ。日本の国益を考えると、海外から取り入れるべき科学技術もあろう。日本人は昔から海外の技術を取り入れ、母国語で考えてその技術を日本の中で世界最高水準のものに仕上げるのが得意じゃった。これから先もその姿勢、忘れてはなるまい。日本の国益のために「仕方ない」から学べ。もう一つ、海外の人間が日本語を習得するのが困難じゃゆえ、「仕方ない」から相手の言葉を使って教えてやれ。よいか、こういう姿勢が大切なのじゃ。そして、ここで考えよ。おぬしは、海外から何を取り入れて、それを日本でどう活かすのじゃ? そして、海外の人間に教えてやることは何か持っているのか?

■揚げ足取りの役立たず■(2003年8月13日)

世の中で良いも悪いもとにかく世の中を動かしておる人間の揚げ足を取るしかできぬ奴は役に立たんわい。