子育て大学 No.1

■はじめに■(2001年10月1日)

わが国における社会的問題(特に、子どもの犯罪や子どもへの犯罪)の増加が、年々深刻になっています。識者達がこぞってその原因を推察しているのですが、予防的視点で語られているものはわずかなようです。本ページでは、こうした社会的問題を予防する視点として、子育て(parenting)の重要性を強調しています。

■子育て大学とは?■(2001年10月1日)

 冒頭で述べた社会的問題の増加に示される風潮もさることながら、数年前から街の中で出会う親子関係、養育者と子どもの相互作用を目の当たりにするにつけ、「おかしいなあ」と思うことがしばしばありました。核家族化によって、祖父母の時代からの子育てが伝承されないというのもあるでしょう。でも、孫に対する祖父母の子育てを見ても、必ずしも適切でないことも少なくありません。養育者に対する子育て教育の必要性を痛感していました。何らかの形で、養育者に子育てを教育し支援するシステムを構築していかなければなならいとずっと考えていたのです。そこで、子育て大学を作ろうと思ったわけです。

■子育てとは?■(2001年10月15日)

 子育てに関するアメリカ合衆国の文献を読んでみると、”parenting” という用語が子育てという意味で使われていました。辞書的には、”child rearing” ないし”child care” の方が子育てという用語に相当するものとして一般的なようです。私が、”parenting” という用語を気に入ったのは、「親らしいことをすること」という意味に読み取れたからです。そこには、「親らしく何かやること」「親として果たさなければならないこと」という意味が含まれているように思われます。親(parent)になる条件として、やらなければならないこと(parenting)があるといえます。
  一方、日本では”parent” という用語をほとんど名詞として使うよう教育されてきました。ですから、「親である」という意味が日本では強すぎるように感じます。これでは、肉親、義理の親、厳格な親、友達のような親、年齢の離れた親といったように、親子間の関係性を定義するにとどまります。
  子育てを支援していくためには、”parenting” という意味に注目して「親らしく何かやること」「親として果たさなければならないこと」をはっきりとしていかなくてはなりません。動詞として”parent” をとらえ直すことからスタートしましょう。

■具体的な事例から■(2001年11月18日)

上に、親として果たさなくてはならないことがあると述べましたが、その内容については後々に見えてくればよいと思います。まず、具体的なエピソードや事例から考えていただきたいと思います。

■「つもり」や「はず」は危険な思い込み■(2001年11月18日)

 養育者や指導者が、「子どもに十分、言い聞かせた(つもり)」「十分ほめてやっている(つもり)」「厳しくしつけてきた(はず)」「理解させておいた(はず)」「工夫して指導している(つもり)」などと言われるのを聞くことがあります。これらが断定的に言われたとしても、意味がありません。そもそも、こうした言い方がなされること自体、物事が首尾よくいってないわけです。つまり、結果が重要なのであり問題なわけですから、その問題を解決するための手段を考えていきましょう。
  本当に最近よく見かける光景なのですが、周囲に迷惑をかけている我が子に対して、親が「だめよ、そんなことしちゃ」などと言ってるけれども、子どもはケラケラと笑っている。その子どもの不適切な行動は一向に減らない。でも、この親はきちんとしつけていると思い込んでいるんです。重要なことは、この不適切な行動が減少し、それに代わる適切な行動が増えたかどうかです。同様に、「ほめているから大丈夫」「きちんと厳しく叱っているから大丈夫」というのも、思い込みになりがちなので気をつけましょう。

■「つもり」や「はず」にならない注目すべきポイント■(2001年11月18日)

では、どのようにすれば思い込みにならずにすむでしょうか。そのためには、以下のような視点が役に立つと思います。

  1)ある特定の場面で
  2)子どもの特定の行動に対して
  3)養育者や指導者が何らかのはたらきかけをした際
  4)その瞬間あるいは近い将来、子どもにどのような変化が生じたかを査定する

  具体例を挙げてみると次のようになります。1)電車の中で、2)大声を出して走ったり座席で飛び跳ねたりする行動に対して、3)母親が「だめよ、そんなことしちゃ」と、はたらきかけた際、4)その瞬間はケラケラと笑っていて、1週間後も同じ行動を繰り返している、となります。
  ここの3)の部分だけしか考えなければ、思い込みになってしまう危険性があります。3)と4)の関係というのは相互作用の視点であり、ここをよく見てみることが問題解決のための第一歩となるでしょう。

■病院の待合室でのこと■(2001年11月28日)

つい最近、病院の待合室でのことでした。私の隣には6歳ぐらいの子ども連れの母親が座っていました。その子どもが、長いすの後ろから背もたれを乗り越えて母親の背中にひっついたり離れたりを繰り返しました。背もたれをまたぐ際、左隣の私や右隣のおばあさんに子どもの足が当たりました(それほど迷惑なわけでもないのですが)。それに気づいた母親は、「しずかにしなさい、やめなさい」と何度も注意していました。でも、子どもはなかなか言うことを聞きません。しばらくして、母親がとった手段は別の長いすに移動し、私やおばあさんの近くから離れることでした。すると、子どもはすぐに追いかけて母親の膝の上に飛び乗りました。母親は満足そうな顔をしながら「バタバタしちゃ、ダメダメダメ~」と子どもの背中をさすってあげました。子どもはキャッキャと楽しそうでした。
  母親にとっては、とりあえず両隣の他人に迷惑をかけないように場所移動して一安心という感じなんでしょう。つまり、母親にとっては今現在の問題を解決することに成功したといえます。
  一方、子どもにとっては形振り構わず母親に近づけば、母親が相手してくれるという関係を学習したでしょう。したがって、これから先のことを考えると、この子どもは母親に構ってもらいたいときに形振り構わず(たとえ他人に迷惑をかけようとも)、いろんなことをする可能性が高まったといえます。
  この身近なエピソードから、母親にとって「子どものことで母親自身が非難される可能性」を解決することと、子ども自身が将来「社会から非難される可能性」を解決することは、まったく別モノであることを押さえておかないといけないでしょう。

■褒めない養育者・指導者■(2001年12月28日)

ただ単に子どもを褒めればいいというわけではないのですが、世間一般の子どもや自分が子どもだったときと比べてしまう人は、なかなか子どもを褒めない傾向があるように思います。ことばの遅れのある4歳の男の子がはじめて音声模倣できたとき、「ほかの4歳児ならもう喋っているよ」などと考えてしまって、この芽生えを認めてあげなければことばの遅れを取り戻すチャンスを失います。2か月間まったく学校に行けなくなっていた15歳の中学生が、放課後の行事に参加できたとき、「授業に出て欲しいのに」などと考えてしまって、この変化を認めてあげなければ再登校のチャンスを失います。
  世間一般の常識や思い込みによるモノサシで子どもを見るだけでなく、子ども自身の発達的(細かい個々の行動上の)変化や、1歩踏み出す努力を認めてあげましょう。