森造じいさんの言の葉 No.2
■厳しい鍛練を求める者■(2002年7月4日)
わしの孫が言うには、わしのこのコーナーを始めてからというもの、アクセス件数が減ってしもうたそうな。まあ、確かにホームページを覗けるモンは最低でもインターネットが使えるわけじゃから、メールなんぞのコミュニケーション批判を我が事のように受け止めた可能性はあるかもしれん。それで苦しゅうなって離れていったんじゃろうの。じゃがのう、頼もしいのは高校生や大学生くらいの若モンが熱心な読者になって更新を楽しみにしておるらしいことじゃ。親や祖父母、あるいは教師に怒られたことはあっても、真剣に叱られたことのない連中がこの世代に多いのかもしれんな。もちろん、この若い世代にも課題が山ほどあるのじゃ。それは、言葉として納得するだけではなく、実生活で自分の決めた目標や価値に向かって日々精進することじゃ。鍛練を止めることは簡単じゃが、日々精進するのは何と難しく厳しいことか。己の価値がどこにあるのか毎日吟味して生活してみぃ。
■「まあいいか」とすぐに言う奴■(2002年7月11日)
エネルギーの足りん奴は、すぐに「まあ、いいか(しょうがない)」と言うてしまうのう。まったくもって嘆かわしい。「まあ、それでもいいか」「まあ、こんなもんでいいか」「今のままでも、まあいいか」などのオンパレードじゃわの。こういうもんを「達観」と名付けることで、まるでこれが美徳かのように言う奴もおろうが、困難な道を選ぶことができんだけのことじゃ。じゃが、一方で「諦観(ていかん)」という心境に立つこともまた重要じゃ。そうでなければ、何でもかんでも革命を起こさなくてはならなくなってしまうからの。つまり、出来るときに、心血注いで取り組んで、その後は「なるようになるさ」と考えればよい。それで駄目なら、その結果を受け止めて、新たな道を模索すれば良いのじゃ。
■自己評価はあくまでも低く■(2002年7月27日)
現代人は、やたら「自分としては満足」とか「自分は納得しているからそれでいい」とぬかすのう。そんなことをぬかして現状に甘んじておる奴はそこで停滞するのみ、まったく成長・発展せんぞ。他者あるいは社会に認められとる奴は、そんな寝惚けたことはぬかさんじゃろう。自己評価を下すときにはの、「周りは認めてるのかもしれないが、自分としてはまだ満足できない」としておく位がええのんじゃ。それが道を極める者の取るべき態度じゃ。
■森造じいさんへの質問■(2002年8月8日)
Q:私の職場の上司ですが、「仕事のことで何かあったらe-mailで連絡して」と言ってくれました。それで仕事のことで何度かメールを出したのですが、ほとんど返事がありません。メールで仕事のことが打ち合わせできたら便利なんですが、この気むずかしい上司にうまく返事してもらえる方法はありませんか。(広告代理店勤務。女性)
A:お主は何をぬかしてけつかるか。その上司は、仕事の打ち合わせのための「会合の日時」「前回の会合の整理」「次の会合のテーマ」などを連絡してほしいために、そう言ったと考えられんのか。だいたいお主、「メールで打ち合わせできれば便利」とぬかしおったな。たわけたことをぬかすでない。お主は自分の仕事に誇りをもっておらんのか。仕事の内容については会って話をすべきじゃろう。それにそんな調子ではメールの内容も気軽で失礼じゃったかもしれん。とにかく、お主が反省せい。
■自由とは何ぞや■(2002年8月19日)
人間は束縛されることが嫌いで自由を好むといえば当たり前と言われてしまうじゃろうの。自由を欲して好き勝手なことをやらかしてしまいたくなる年頃があるのもよう分かる。じゃがのう、わしら(といってもわしはもうあの世じゃが)生きておるモンは、生きておる限り、自由なんぞ得られるものではないのじゃ。たとえば考えてみい。「教室の窓ガラスを割るも割らんもお前の自由。好きにするがいい」と言われた奴が、本当に窓ガラスを割ったとする。じゃが、こう言われた時点でガラスを割ろうが割るまいが自由は失われておるわけじゃ。生きとる限り、自由などというもんはフィクションにすぎん。「おれは絶対に目を閉じたくない」と思っていても、突然の強い光や風で舞った埃一つで勝手に目蓋が閉じてしまうような生理的性質を持っとることからも想像できるじゃろ。ビルの30 階から隣のビルの屋上まで飛び移ろうと思うても、どんなに腕をはばたいたところで到底無理、遺伝的にも最初から制約があるわけじゃ。
じゃが、重要なことは「自分は自分のしたいことを選択できる。選択肢も1つしかないのではなく増やすこともできる。ゆえに、自分は自由である(気がする)」ということを実感することなのじゃ。裕福なモンは自由、貧しいモンは不自由と短絡的に結びつけるのは愚かじゃ。裕福なモンでも自由である気がしない奴、貧困なモンでも自由だと感じておる奴もいる。自分は好き勝手自由にできると思い込んどるモンよりも、制約の中で自由を見つけようとするモンのほうが余裕のある生活を送れるということじゃ。
■放牧の自由■(2002年9月2日)
前に、生きておる限り自由とはフィクションというたが、こんなもんを追い求めると逆に不自由な感覚を持ち続ける不幸を招くことになる。そういう輩は常に不満を持ち続けていく哀れな輩じゃ。放牧の牛や羊のことを想像してみい。広い範囲で自由に動くことが許されとるだけであって、ある範囲を超えると強制的に戻されるんじゃ。逆に、牛や羊が好き勝手な所に行くのを誰も止めてくれなんだら、家畜泥棒にさらわれてしまうかもしれんし、狼に喰われてしまうかもしれんし、崖から落ちてしまうかもしれん。ま、牛や羊は自分がなぜ連れ戻されるのか分かっとらんじゃろうがの。とにかく、ある程度の強制力があるおかげで人間は安心に生活できとるわけなんじゃ。親や教師、法や国家の強制力に反発したくなることもあるじゃろう。じゃが、与えられとる強制性をどう感じるかはお主らのとらえ方次第。子どものうちならば良いが、ええ社会人ならばまずはこういうスタンスをとってみい。
■バランスの問題■(2002年9月20日)
物事が上手くいくときは自由を感じることができるじゃろう。逆に上手くいかんときは不自由に感じるものじゃ。そりゃあのう、何でも上手いこといくほうが心地よいわい。じゃが、上手くいかんことを何度も何度も経験しておる人間こそ、上手くいったときの喜びが大きいのじゃ。いつも成功しとるモンにすれば、ちいと失敗しただけで大きな不満をかかえてしまいやすい。例えるなら、いつも一番だった優等生が二番になってしもただけで落ち込んでしまうようなもんじゃ。こう考えるといつも成功しとるモンはかえって気の毒じゃのう。親や教師ならば、子どもを「上手くいかんでも努力を続ける強い人間にするため」に工夫をしてみい。成功ばかりしとる場合には失敗経験を、失敗ばかりしとる場合には成功経験をさせるよう配慮するのじゃ。
■己が弱さを知れ■(2003年1月17日)]
自分の弱さというものはの、無意識のうちに隠してしまうものなのじゃ。じゃから、自分の強いと思うておる部分が、実は裏を返せば弱い部分であることもようある。じゃが、それに気が付いたとき、それほど無理に強がる必要も無うなるじゃろう。真の強さとは、強さを磨くことではなく、己の弱さを知ることに始まるのじゃ。
■森造じいさんへの質問■(2003年2月26日)
Q:森造じいさんへ質問です。私のちょっと上にあたる上司ですが、典型的な中間管理職タイプというか私にだけは絶対に得にならないようにして、反対にその上司の上の人間に対してはイエスマンなんです。そんな上司の態度を改めさせる方法って何かありませんか? (会社員。男性)
A:何をたわけたことぬかしてけつかるか。それが当たり前じゃろう。そんなもん、態度を改めさせるなんぞ土台無理な話じゃ。お主のその上司にはまだまだ焦りがあるんじゃろうの。嫉妬っちゅうもんは、年下や後輩のもんが年上や先輩を追い抜いたり、脅かす存在になったあるいはそう感じた場合に生まれるもんなのじゃ。自分の城を立派に作り上げてしまった人間はの、若い人間の築城を邪魔したりせんのじゃ。自分より後に築城を始めた者が、ものすごい勢いで今までの城よりも巨大で立派な城を作りつつあるとすればどうじゃ。先輩城主は、それを阻止しようとするじゃろうて。のう、別に励ましで言うつもりはないが、その上司は可愛そうなやつじゃと断言できるわい。そう思って哀れんでやれい。
■コメじゃ、コメ!!■(2003年6月3日)
戦後日本はあらゆる文化破壊の憂き目におうておる。特に食文化じゃ。日本人の主食はコメじゃぞい。貿易の観点からも外国からの食料輸入に頼らず、コメの需要を増やさんか。まずは学校給食をすべてコメ食にすべきじゃわい。パンなんぞが好きな奴は、朝、かじってきたらそれでええ。いくらなんでも食料の自給自足率が低すぎるわ。日本が真の意味で独立国家たるためには、食料輸入に依存する今の体質を変えんといかん。国内のバランス、国際的なバランスに敏感な政治家はおらんのか? 食料自立5カ年計画とか、食文化改正10カ年計画などドラスティックな変化が期待できる具体策をなんとしても打つべし。自国の文化の維持には計画が必要じゃ。なおものんびりしておったら、さらに浸食されてしまうわい。
■外国語を学ぶ理由■(2003年8月13日)
外国語を学ぼうとする日本人が多いのう。勉強しようとする姿勢は評価してやってもええ。じゃがのう、その目的はなんじゃい。格好がええからとか、みんながやってるからとかぬかしておる奴は、外国語を習得したところでクソの役にも立たぬわ。日本には母国語で高度な科学技術を利用できるし、伝達できるのじゃ。では、何故、外国語を学ぶのか。それは「仕方ない」からじゃ。日本の国益を考えると、海外から取り入れるべき科学技術もあろう。日本人は昔から海外の技術を取り入れ、母国語で考えてその技術を日本の中で世界最高水準のものに仕上げるのが得意じゃった。これから先もその姿勢、忘れてはなるまい。日本の国益のために「仕方ない」から学べ。もう一つ、海外の人間が日本語を習得するのが困難じゃゆえ、「仕方ない」から相手の言葉を使って教えてやれ。よいか、こういう姿勢が大切なのじゃ。そして、ここで考えよ。おぬしは、海外から何を取り入れて、それを日本でどう活かすのじゃ? そして、海外の人間に教えてやることは何か持っているのか?
■揚げ足取りの役立たず■(2003年8月13日)
世の中で良いも悪いもとにかく世の中を動かしておる人間の揚げ足を取るしかできぬ奴は役に立たんわい。