森造じいさんの言の葉 No.1

■森造じいさんのプロフィール■

本名:田中森造(たなかもりぞう)。明治37年(1904年)1月23日生。昭和58年(1983年)1月3日没(享年79歳)。裸一貫から出発し、電電公社(現・NTT)局長職を全うした後、隠居。多くの子・孫たちに恵まれ、彼らに大きな威厳と愛とを示した。趣味はボクシング観戦、クラシック鑑賞。特技は散髪、乳歯抜き。

■なぜ今、わしの出番なのか■(2002年4月26日)

わしはすでにこの世を去った。わしの孫がどうしてもわしの言葉を今の世に伝えたいというので、わしの考えを話したいと思う。第二次世界大戦後たった数十年の間に、長い歴史を有するこの国の有様は劇的に変化した。敗戦を経験し、その復興のために国民が知恵と力の限りを尽くし、今や日本は世界の先進国に比肩しうる大国となった。その発展の一方で、失うものもまた大きかったように思う。わしは電電公社に勤務しておったから、戦地に赴くことができず情報の近代化を目指して戦ってきた。誠に残念なことだが、先の大戦から今日に至るまで、日本は情報の戦争に負け続けているのではないかと思わざるを得ない。ここでいう情報とは、’information’という意だけでなく、’communication’という意を含むと考えておる。わしに言わせれば、日本の技術開発力は世界でトップクラスであるが、その技術を外国に良い条件で売るための交渉、’communication’を不得手としているのではないか。この不得手な部分を克服するには、何をさしおいても人間を鍛練することが重要であると思う。ここでこうした鍛練の機会をわずかながらも与えることができるなら幸いである。誰にも批判されたくない、自分は常に正しいと思っている者には、ともすれば毒薬にもなるであろうから、免疫が出来るまでは読まぬよう一言申し上げておく。

■携帯電話の発展、万歳!!断罪!!■(2002年5月5日)

昨今の携帯電話の普及は、電電公社で通信に関わる仕事をしておったわしからすれば大変喜ばしいことじゃ。しかも、日本の携帯電話の性能やシステムは世界標準を争うほどのものと聞いておる。携帯電話用の小型リチウム電池など、世界中どこを探しても日本のものより良いものはない。携帯電話が昔で言うところの音声伝達システムとして普及したというより、iモードを代表とする文字伝達システムの普及が、このビジネス発展の火付け役になったと言ってもよいじゃろう。
  じゃが、文字によるコミュニケーションの普及は、人間同士、面と向かってのコミュニケーションを退化させる原因になっておる。今や、サラリーマンから学生まで、面と向かってのコミュニケーションよりもメールでのコミュニケーションを好んでいる輩が多い。家族同士の会話も、メールで済ませてしまう時代である。これは面と向かってのコミュニケーションの経験を大いに阻害しておる。メールは送り手が自分の思いついた時、自分の都合で、自分の言いたいことを自分の言いたい時に好きなだけ言えるという点で自由度が高い。じゃから、使いやすい。それに比べて、面と向かってのコミュニケーションじゃと、相手がこちらを向いているか、こちらの話を聞こうとしているかなどと、相手の反応を見ながら話さなければならん。じゃから、疲れる。
  結果として、他人のことを考えない人間が完成してしまうのじゃ。メールばかり使っている者よ、生の人間に直に会って面と向かってのコミュニケーションの機会を増やすのじゃ。さもなくば、お主ら現代人は協調や交渉等のコミュニケーションに脆弱な人間になるか、キレやすい人間に堕ちてしまうぞい。

■携帯電話会社の問題■(2002年5月10日)

 上に言うたことは、携帯電話会社にも問題があるように思うのじゃ。自分の会社だけ儲けようとするさまは愚かすぎて目も当てられん。その技術が人間の生活に何を与えるのか、人間の成長にどのような貢献をもたらすのか、逆に弊害を与えうるのか考えておらんのではないか。ビジネスのことばかり考えず、人類への貢献、自国の発展についても考えていかんと、わしは認めんぞ。なんじゃい、あのメールを楽しそうに格好良く使っとるCMは。メールより電話を使いやすくするための方策を考えよ。例えば、通話料金を無料にして、メール送受信の料金を10倍にするとか、コミュニケーションの問題に真剣に取り組むことはできんのか。人間を楽にする機械を開発することが目標ではない。人間を成長させ幸せにする機械を開発することをこそ目標にせよ。

■メールなんぞは卑怯で姑息■(2002年5月21日)

前にも言うたと思うが、現代人は面と向かってのコミュニケーションが下手になってしもうとる。メールを連絡に使うのは良いわい。感謝やお礼を略式に伝えるのもまあ良しとしよう。じゃが、苦情や不満、批判や自己主張、釈明なんぞをメールで済ませてしまうのはまったくもってケシカラン。そういう輩に限って、面と向かって相対しとるときには何も言わん。会うてるときには何も言えんが、家に帰って色々考えてようやく自分の意見が見えてくるんじゃろうな。それなら次に会うたときに直接言えば良いではないか。それができんもんじゃから、一方的に自分の考えをメールで送って済まそうとしておるんじゃろうの。こうして、さらにコミュニケーション下手になっていくんじゃ。いつかどこかでやり方を変えていかなんだら成長せんぞ。

■コミュニケーション下手の特徴と結末■(2002年6月13日)

 コミュニケーション下手っちゅうのはのう、熟慮を欠いた行動をしてしまいやすいんじゃ。いろんな対処法があるのに、この対処法をじっくり考えず短絡的にものごとを処理してしもうたら何の成長もない。そりゃあのう、面と向かってコミュニケーションを取るのは骨が折れるし、エネルギーがいるのは分かるわい。批判されるかもしれんし、相手にされんかもしれん。結果として自分の自尊心が傷つけられるかもしれんしの。じゃがのぅ、面と向かってのコミュニケーションを避けとる連中。普段から鍛えられとらんから何をやってもエネルギー不足で中途半端になってしまうのがオチじゃ。面と向かって他人と話すこと。これだけでも鍛練になるんじゃぞ。

■エネルギーを失ったニヒリズム■(2002年6月20日)

まあ、現代の日本を見渡してみると、なんとエネルギーの無い人間の多いことか。色んな価値があって良いという風潮が蔓延しておるのは、要するにエネルギー不足の個人主義者が多いからじゃろう。「俺は俺、他人は他人」という、しらけムードが氾濫した結果、生命の尊厳を軽んじる輩を生み出すのじゃ。インターネットのコミュニケーションなんてものがの、余計にそういうムードを創り出しておる。日本国民が段々、外部から口を挟むだけの「役立たずの評論家」に堕ちていっとるのが何とも嘆かわしいわ。むしろのう、オヤジ世代に抵抗しておる青年の方がエネルギーに満ち溢れとる。こやつらが、そのエネルギーの方向を見誤らなんだとき、すかしたオヤジ世代にはできんかったことが成し遂げられるじゃろうの。